昭和42年11月27日 夜の御理解


 信心をさして頂く者の姿勢というか態度というか、そういうようなものが、木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言うような心持ちになれよという。木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言うような心持ち。藪神小神の前を通っても、一例をして通るような心持ち、そういうような表現で教えておられますよね。薮神小神と言えば、もう人も拝みてなからなければ、まあいうなら、荒れ放題に荒れておる祠の前を通らせて頂いても、いうなら石の地蔵さんの前を通らせて頂いても、こう一礼をして通るような心持ちになれよと。
 そういうようなこの信心態度というか、そういうものが身に付いてくるという事が有り難いと思うね。形だけに、行儀作法のように、覚えただけではいけませんですから、内容がそうしなければおられない、木の切り株といえばむしろ邪魔になるようなものそういうようなものに対してもよし、腰を掛けさせて頂いたなら、立つ時には礼をいう心持ちが心の中にね、いつも、頂けておるというような信心になれよというのである。
 ここんところをね、皆さんがおかげを頂かなければならないと思う。私自身も御祈念一時間前にここに出てきたんです。(?)まあ、(?)お初穂整理をさせて頂いておるところへ座らせて頂いてから、気分がいいなあと思うて、ここは中々良いところだと思うのですね。本当にあの雰囲気が良いです。赤い雪洞風の電気のしたで、本でも読ませて頂いたらここよりも静かなんですね。それから立ちあがってこう手洗い鉢ところから、下駄箱のところに参りましたら、あの、最近は大きな鏡が掛けてございますね。
 もう、いやというても下駄をあそこへもっていけば、自分の姿の足のつま先から頭のてっぺんまでが、映るようになって、自分の映し出されるその姿というものを見せて頂いてから本当にこれは有り難い事になってきたもんだなあとこう思うのです。いうならこの黒衣に身を固めさせて頂いて、ちらっと除く下着は真っ白の肌着がここへ覗いておる。

 下を見ると、真っ白い白足袋を履かせて頂いておる、はあーこれでおそらく私は一生終わるであろうが、内容もこの通りの事になっていくことにならなければ勿論いけませんのですけれども、成る程私が小さい時から、あの紋付袴が好きだった。いわゆる私は紋付を作ってある事を私は覚えております。それはあの、(ぜんぜんべべ?)というて私は(ぜんぜんべべを?)求めたということですね。ぜんぜんと言うのはお金、丸いお金、紋がついておるということ、はあー本当にあの時分から一つの紋付というものにですね、まあいうならば憧れをもっておったような感じがする。神ながらな事だと思いながらそんな事を思い出させて頂いてから、思うのでございます。ね、薮神小神の前を通っても、一礼をして通るような心持ち、もしその薮神小神に芯があるならば、あら、この頃私の前を通っておった。それこそ、頭一つ下げておらんのに、(?)小便どんかけて行くやつがおるぐらいな、いわば、混乱した中に、私共が通ってからここを一礼をして通っておる。どこのなんていう人の氏子であろうかと思うたら、ははー成る程金光様の氏子じゃ、本当(?)。金光さまの顔まで良くなるという事なんだ。親の顔まで用なるという事。
 私共日夜紋付袴をこうして着させて頂いて、ね、とにかくその、どこにいとってもどこへおってもすぐ分かる。あれはどこの何がしという事が分かる。特に私共の場合なんかはこれは私だけのものですから、ね、あれは合楽の大坪さんという事が直ぐに分かる。

 いわゆる、この紋付を着たらいうなら悪い事は出来ないという事。だから、しないのではないのですけれどもです、ねそういう、私はその薮神小神の前を通っても一礼をさせて頂くような心持にならせて頂く、やり過ごしておいてから、後ろについておる紋をご覧になってからです、その薮神様がです、成る程金光大神はよい氏子を持って幸せだなあとこう、金光大神の値打ちが出て来る。ね、私共が神様を現す、神を顕現するといったような、まあ今の言葉でいうならそういうような事を盛んにいわれますけれども、神様を表すという事は、人の前だけのことだけではない。薮神小神様の前でも現せていける信心。木の切り株にもし性根があるとするならば、ね、自分のようなこの世で一番いらんものに対しても一礼をして下さるその人の人柄をやはり、有り難いと思わないはずがない。ね。それには私は今申しますように、いつも私共がです紋付袴に身を固めておるような心持ちが必要ではなかろうかと。寝巻きを着とったら、どこへ、ぼやぼや寝ても良いです。
 引っかかりません。ところが紋付袴を着けておってごろごろ寝ておるわけにはいけません。ね。

 白足袋を履いたらそう足元を汚すようなことは出来ません。白足袋を履いておるとこう思うから。ね、(?)のほうには引っかかっておってもです、下の方から、垢い襟が例えば、垢のついた襟がです、覗いておったのでは、もうチラッと覗いておっただけでももう嫌になるのです。ある方が結婚なさった。中々器量が良い。お付き合いをしてくれという事である。ところが(?)きれいですけれどもね、もう、この、首筋から耳の中がね汚かった。もうそれを見てからげっそりしてから、一遍でお断りをしたという御信者さんがあります。
 ね、着飾っておる、器量が良くてもですいわば、耳の中の掃除をしていなかった。ね、襟足が汚れておったと。そげなことを思うのですね。何時も私共が内容が清潔でなからければいけない。表よりも裏を大事にしなければいけない。
 ね、そういうようにして心の身を固めるというか、その、修行の心というか、ね、そういうような心の上に紋がついておる着物を着せて頂いておるような、信心をさせて頂いて初めてです、薮神小神の前を通っても一礼をするような心持を忘れんことじゃないか、木の切り株に腰を下ろしても、たつ時には礼を言うような心持ちが自ずと備わってくるのではなかろうかと、私今日、御祈念前に自分の姿を鏡に映し出させて頂いてから、そんな事を感じた。どうぞ信心をさせて頂く者の態度、姿勢とかと言われますけれども、問題はまず、内容。同時にいつも紋付袴をつけておるような、きちっとした信心が必要であるという事ですね。
                                         どうぞ